ミヒャエル・エンデの『モモ』。2020年8月にNHKの『100分で名著』で取り上げられたタイミングで、読み直したという人が多いみたいですね。ちなみに、わたしくはこのときまで、『モモ』という本があることすら知らなかったです。すいません…
ですが、『100分で名著』をきっかけに興味を持ちまして、今年の誕生日にやったAmazonほしい物リスト企画で友人からプレゼントとして頂きました。リストにある100冊のなかから『モモ』を選ぼうか迷ったという方も聞きましたし、わりと早めにリストからなくなったので、読者が多いんだなーと思い知らされたわけです。ちなみに、柴咲コウさん主演で2020年秋ドラマ『35歳の少女』で『モモ』がキーになってるのは偶然なんでしょうか。『モモ』で時が過ぎるのは1年でしたが、『35歳の少女』は25年…。2回目までは観たんですが、そのあと全然観ていなかったので観なおそう。
読む前に著者のミヒャエル・エンデを調べてみました。『はてしない物語』という本も書いている。こちらは映画『ネバーエンディング・ストーリー』の印象が強く残っていて、急に親しみがわきます。映画公開のタイミングでは、わたしまだ物心ついてないんだけど、めっちゃリマールの8cmシングル聴いてた。金曜ロードショーとかでよくやってたからなのかな。
ちなみにリマールが歌う「The NeverEnding Story」は、曲がフェードインから始まり、フェードアウトしていくことで、「終わりがない」物語を表現しているそうです。豆知識!?(確かめたい方はYoutubeへ)
著者のミヒャエル・エンデが、物語に教育的要素を乗せて描いていることがよくわかるエピソードが、この『はてしない物語』の映画製作陣との確執から伝わってきます。「ネバ―エンディング・ストーリー:wikipedia」に記載がありましたが、映画版は原作と違い、主人公バスチアンが本の中の世界の力を借りて、現実世界のいじめっ子に仕返しするという結末になっているようなのです(覚えてない…)。ミヒャエル・エンデはこれを「現実逃避」として批判し、告訴までしたそうです。
エンデについては研究が多くなされているようで、
エンデは自分のファンタジー児童文学が現実逃避の作品として扱われていることに不快感を持っていたらしく、現実を生きるための教訓的なメルヘンを目指していた
wikipedia ネバ―エンディング・ストーリー 2020.12.12引用
ということらしいです。
そう捉えると『モモ』も教訓的な物語ということですね。実際、そう思います。
『モモ』は、時間という存在と、「無駄」のなかにある幸福について考えさせられます。1973年に発表された当時のヨーロッパを背景として、資本主義社会がもたらす効率化の社会が風刺的に描いている側面もあるのかも。
児童書ではあるものの、大人が読むと、とらえ方がかなり違うんじゃなかろうかと思います。わたしは大人になってから初めて読んだのですが、読んで感じたのは、勇気とかよりも怖さのほうが強いです。
あとで書きますが、なかでもこの子どもたちのセリフ。
これからどこに行くの?
『モモ』p319 モモのセリフ
遊戯の授業さ。遊び方をならうんだ
『モモ』p319 子どもたちの一人フランコのセリフ
子どものころに読んだら、どういう感想をもったんでしょう。きっと、時間というものはとても大切で、失うととんでもないことが起きるので、時間を削ろうとしようなんて思ってはダメだ!と強烈に頭に残るんじゃないでしょうか。
これこそ、ミヒャエル・エンデが子どもたちに「現実を生きるための教訓」として伝えたかったことかもしれません。子どものころに影響を受けるものによって、その子の価値観は大きく変わるでしょう。そうした意味で『モモ』は、大人たちが危機感をもっていることを物語を通して子どもたちに伝え、主人公モモのように「人の話を聞く」という大切な力や、友だちのために脅威にも立ち向かう勇気に気がついてもらいたいという思いから、長年語り継がれる名著なんですね。
サマライズ(本の概要と要約)
モモのあらすじ
廃墟となった円形劇場に住み着いた少女モモ。
廃墟に女の子が一人で住み着くなんて心配だと、大人たちは力を合わせてモモの世話をすることにしました。モモと触れ合ううちに、大人たちは悩みごとがあると、モモのところに足を運ぶようになります。モモには人の話を聞くという誰にでもできるけど、だれにでもできない特技を持っていたのです。
モモは毎日、大人たちから食事をもらい、親友の掃除夫ベッポ、観光ガイドのジジ、子どもたちと空想を膨らませて遊んでいました。
ある日、街に時間貯蓄銀行を名乗る「灰色の男たち」が現れ、大人たちから時間を奪い始めます。毎日、無駄な時間を使っている分を貯蓄にまわそうと時間の倹約をそそのかすのです。おとなたちは口車に乗せられ、時間を奪われていきます。灰色の男たちには時間を返すつもりなどなかったのです。
時間を奪われた大人たちは次第にモモのところに足を運ばなくなり…
モモの登場人物
モモ
物語の主人公。廃墟となった円形劇場に住み着いた少女。年齢はわからない。
モモは、円形劇場に住み着く前には、どこかの施設に入っていたらしい。大人たちは心配したものの、大人たちが力を合わせてモモの面倒を見ることになって以来、モモに話を聞くと悩みが解決するというのが評判になります。
やがて「灰色の男たち」の存在を知り、モモと接触したそのなかの一人がモモの聞く力を前に、しゃべりすぎてしまったために、秘密を知り、彼らから追われる身になる。
ジジ
観光ガイドの若者で口達者。モモとベッポとは親友。観光客に対して、空想の物語を語り、お金を稼いでいる。みんなに話す物語と、モモにだけしか話さない物語があり、そのなかの一つ「モモ姫とジロラモ王子」の話は二人の恋愛話。やがて灰色の男たちの影響力が支配するようになると、彼の空想力の種も尽き、モモだけに語っていた物語も多くの人に語ってしまう。
人生でいちばん危険なことは、かなえられるはずのない夢が、かなえられてしまうことなんだよ
『モモ』p307
ベッポ
掃除夫の老人で口下手。モモとジジとは親友。口下手で慎重に言葉を選ぼうとするので、変人と思われがちだが、モモはベッポの言葉を最後まで聞くことができたので、変人と思うことはなかった。今を大事に生きており、掃除という仕事をこなそうとするのではなく、ひと掃きひと掃きを大事にして生きている。
いちどに道路全部のことを考えてはいかん、わかるかな?つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸だけのことだけ、つぎのひと掃きのことだけを考えるんだ。
『モモ』p53
灰色の男たち
時間貯蓄銀行を名乗る男たち。帽子と葉巻、スーツケースを持ち、全身が灰色。大人たちに時間の無駄は貯蓄にまわすようにそそのかし、時間を奪う。男たちは時間を糧にして生きている。秘密を知ったモモを追い、時間を司るマイスター・ホラを狙い、時間を支配しようとする。
この合計がつまり、あなたがこれまでに浪費してしまった時間なんです。どう思います、フージーさん?
『モモ』p94
子どもたち
モモのところに遊びに来る。モモがいなくても自分たちで遊びを考えて楽しむこともあった。もともと都会の「玩具を買い与えられる子ども」はあまり来なかったが、大人たちが時間を奪われてからは来るようになる。モモが円形劇場からしばらく離れた間に「子どもの家」に預けられるようになり…
それなら、おれたちだけでなにかしたらいいんだ――モモがいなくたって。
『モモ』p35
大人たち
モモの面倒を見る。悩みがあるとモモのところに行けば解決するとし、信頼する。灰色の男たちに時間を奪われると、どんどん時間の倹約に走り、モモに会いに行くこともなくなっていく。
もうむかしのようじゃないんだぞ。時代はどんどん変わるんだ。いまおれのいるむこうじゃ、まるっきりちがうテンポですすんでいる。まるで悪魔みたいなテンポだ。
『モモ』p121
カシオペイア
マイスター・ホラがモモを助けるために送り込んだ亀。30分先の未来を見ることができ、モモを灰色の男たちからの追跡から助ける。甲羅に文字を浮かび上がらせて会話ができる。
ツイテオイデ!
『モモ』p177
マイスター・ホラ
時間の国の「どこにもない家」の主人。灰色の男たちからモモを救うためにカシオペイアを送り込む。時間を司り、人間ひとりひとりに時間を分け与える。
人間というのは、ただの時間だけでできているわけではなく、それいじょうのものだ
p352
『モモ』
『モモ』の言葉・名言
『モモ』には考えさせられる言葉がたくさんあります。なかでも印象に残ったところを抜粋。
小さなモモにできたこと、それは他でもありません、あいての話を聞くことでした。
『モモ』p23
文中のなかで十分に説明されていますが、聞くこと自体は誰でもできるようですが、本当の意味で人の話を聞くことができる人は稀な存在です。だからこそ世の中にはコーチングやダイアローグというような手法が注目されるんですね。モモはこの聞く力によって、人を助け、人に助けられています。人々は悩みをモモにしに行きますが、モモはアドバイスを全くしません。モモと話しているうちに、次第に自分の思考が整理され、自分で納得して帰っていくのです。
なぜなら時間とは、生きるということ、そのものだからです。そして人のいのちは心を住みかとしているからです。
『モモ』p83
ミヒャエル・エンデは6章冒頭で、人間が日常的に関わっているにも関わらず、考えることをしないものとして、「時間」を登場させます。読者に「時間」について考えさせるきっかけを作ります。普段何気なく消費していたり、人のために使ったりする時間は、常に人の生と結びついています。なんのために生きているのか、そんな問いかけをされているような気がします。
われわれの生きている現在世界では(中略)もう秘密なんてものはありえない
『モモ』p92
これ、すごくないですか?
灰色の男たちの一人、外交員XYQ/384/b氏が理髪師のフージー氏の時間を奪う際に放つ言葉です。フージー氏のエピソードは、普通の人間の時間の使い方として象徴的に使われているのですが、個人情報がタダ漏れで全部の時間の使い方を把握されてます。
まるですべての行動が情報化される、現代のわたしたちです。
人間が時間を節約すればするほど、生活はやせほそっていくのです
『モモ』p106
効率化を求めた末にできあがるのは、時間的にも金銭的にも一番効率がいい選択しを選ぶようになると、大量生産になりがちです。「同じような家が立ち並ぶ」というようなことが挙げられてますが、これに関してはコストメリットを重視する価値観も全然ありだとは思うものの、ここでミヒャエル・エンデが伝えたいのは「自分で考える時間」を削ってしまうことへの危機感でしょうか。
自分で考える時間がなくなるということは、自分をなくすようなもの。削るべき時間はあるとは思うものの、その空いた時間を何に割り当てるのか、目的を設定したいところです。
ワタシガツイテイル!
『モモ』p280
1年の時を経て、モモが現代に帰ってきた日、円形劇場には誰も遊びに来ませんでした。そのとき、亀のカシオペイアが甲羅を使い「モウダレモイナイ」と不吉なメッセージを発します。不安がるモモに放ったのがこの言葉。一人で不安に駆られる少女にとっては、とても安心する言葉でしょう。安心や幸福というのは、自分がだれかとつながっているとわかることで作られますね。
本の解説と感想
対照的な表現で構成されている
モモを構成する物語の登場人物や章タイトルは、様々な対比が見られます。
昔と今。冒頭、「むかし、むかし」で始まったので、おとぎ話的なものかと思ったら、モモの舞台となる現代になる前の話でした。歴史というものがあって、今があるということですね。
ジジとベッポ。ジジは若くておしゃべりで派手好きですが、ベッポは年老いて寡黙で貧相です。でもモモにこの三人は調和がとれていて、何事にも表と裏があるような、そんなイメージを与えてくれます。三人のエピソードのすぐあとに、灰色の男たちの存在をちらつかせてくるあたり、光と影のような対比も紛れ込ませています。
子どもたちと大人たち。大人がいなければ子どもは存在しないわけですし、子どもを育てるのも大人の責任。大人の行動がもろに子どもに影響を与えるということがそこかしこに描かれます。反対に子どもたちの声が大人たちに届くことがないのが、この物語の大きな障害となっています。
時間を奪われる前と奪われた後。まるで世界観が違いますし、人も変わってしまいます。時間というものが効率化だけを求めた結果、ジジ、ベッポ、子どもたち、大人たち、すべてが悲劇的な状態に陥ってしまいます。
章タイトルのほとんどは二項対立的になっている。なかでも10章「はげしい追跡と、のんびりした逃亡」は印象的。存在と秘密がばれてしまった灰色の男たちが、モモを捕えようと総動員で行動しますが、モモは亀のカシオペイアのゆったりとした歩調に合わせて逃亡します。それなのに不思議とモモは灰色の男たちに見つかりません。カシオペイアが30分後の未来が見えるため、安全な道を通れるのです。これもまた時間を感じさせます。焦るなと。
こうした対比の間にモモが入り、つながりをもったり、調和の役割を果たしているんですね。
時代背景
『モモ』が書かれたのが、1973年。第二次世界大戦の戦後復興という高度経済成長期を経て、順調に経済は潤っていたころかもしれません。このあとに訪れる石油危機や、グローバル経済にあって国際競争にさらされて厳しい環境に突入する影が見えていたのでしょうか。
いずれにしろ、産業革命以降、人々の生産性は二度の大戦を経てもなお飛躍的に上がっていき、資本主義の名のもとに競争社会と大資本による効率化が常に人々の生活とともにあります。中心となる都市は都会化し、牧歌的な時間の流れはどんどん薄まっていきます。
大量生産大量消費の世のなかで競争に勝つには、資本と時間というリソースを投下しなければならないのです。
こうした環境が人々の関係性や幸福感を奪っていることを、ミヒャエル・エンデは『モモ』を通して風刺的に描いたのかもしれません。
「幸福感」って難しいですね。慶應義塾大学の前野先生の『7日間で「幸せになる」授業』では、幸せとは、やらされではなく主体的な状態で、多様性を尊重したりするもの。意欲があり、感謝され。ありのままでよく、楽観という心の力。
『モモ』では、灰色の男たちがロジックで「無駄」を断定し、大人たちは呑み込まれていきます。やがて、時間がないということに支配され、さらに無駄な時間を削ろうと、まるで機械のように情緒的な選択肢を持たなくなります。
暮らしは便利になったけど、幸福度はそれに比例はしていない。そしていま、AIだなんだといわれているけど、確かに便利にはなり続けてる気はするけど、幸せになってるかというと…うーん。
空想力
『モモ』には、空想する力を得るには?という問いも投げられているように思います。それはジジの語る物語であったり、子どもたちの行動によってそれとなく描かれています。
ジジは、空想力がもともと豊かな若者だったけど、聞く力に優れているモモと過ごすことによって、さらに磨かれていきます。それはもう、このくらいの表現がなされるほどに。
モモがそばで聞いてくれるときには、ジジの空想力はまるで春の野のように花ひらきます
『モモ』p62
モモの「聞く力」は、今でいうコーチングです。アドバイスするのではなく、自ら考えて答えを導きだす。ジジにとってはこれに加えて、モモに語ることによる、楽しみと喜びも伴ったのでしょう。ジジがモモにしか語らない「モモ姫とジロラモ王子」は、『モモ』の物語全体を暗示している要素を持ちつつ、『モモ』のなかで唯一、恋愛が描かれている話です。恋愛は人々に妄想を描かせるには最適なものです。
子どもたちは、「子ども」という空想力たくましい存在として存分に描かれます。特に3章の「暴風雨ごっこ」は、その後の子どもたちに訪れる「自分で考えない」という悲劇のアンチテーゼとしての役割を果たしています。暴風雨ごっこは、こどもたちが空想のなかで航海の旅をするという遊びです。それぞれが役になりきり、冒険がつづられます。
「モモ姫とジロラモ王子」も「暴風雨ごっこ」も、『モモ』の本編になくても問題がない、というか「暴風雨ごっこ」は忘れ去られてもおかしくないくらい、物語の必要性という意味で違和感のあるエピソードです。
ですがこの2つのエピソードが、後半の時間が奪われた世界との対比となり、いっそうにゆとりのある「時間」の大切さを考えさせられます。
売れっ子になったジジの予定表はびっしり埋まり、そのなかで恐ろしいほど多産になる。その結果としてジジは変わってしまいます。
いまのジジは聴衆の道化になりました
『モモ』p261
むかしの夢みるジジは、うそつきジロラモになりはてたのです
『モモ』p262
子どもたちはといえば、親から玩具を買い与えられ、面倒をみることができなくなるからと、遊戯教室に通わされます。その結果、
子供達は自分たちの好きなようにしていいと言われると今度は何をしていいか全然わからない
『モモ』p277
という状態になり、以前、モモのところに遊びに来ていたフランコは、久しぶりに再会したモモに「どこにいくの?」と聞かれると、こう言います。
遊戯の授業さ。遊び方をならうんだ
『モモ』p319
まとめ
結局、灰色の男たちの正体は何だったのでしょうか。現代社会における効率化の負の側面として、一時の成果主義を求めることの繰り返しに陥る可能性、その渦のような存在なんですかね。また、悪い存在として描かれますが、時間なくしては生きてはいけないために必死になる灰色の男たちも、時間が重要なものであるということを表していたのかもしれません。
「時間」というものの不思議さと、人に与える影響力、その使い方を問いかけられる物語でした。
本の目次
- 第一部 モモとその友達
- 1章 大きな都会と小さな少女
- 2章 めずらしい性質とめずらしくもないけんか
- 3章 暴風雨ごっこと、ほんものの夕立
- 4章 無口なおじいさんとおしゃべりな若もの
- 5章 おおぜいのための物語と、ひとりだけのための物語
- 第二部 灰色の男たち
- 6章 インチキで人をまるめこむ計算
- 7章 友だちの訪問と敵の訪問
- 8章 ふくれあがった夢と、すこしのためらい
- 9章 ひらかれなかったよい集会と、ひらかれた悪い集会
- 10章 はげしい追跡と、のんびりした逃亡
- 11章 わるものが危機と打開に頭をしぼるとき
- 12章 モモ、時間の国につく
- 第三部 <時間の花>
- 13章 むこうでは一日、ここでは一年
- 14章 食べものはたっぷり、話はちょっぴり
- 15章 再会、そしてほんとうの別れ
- 16章 ゆたかさのなかの苦しみ
- 17章 大きな不安と、もっと大きな勇気
- 18章 前ばかり見て、うしろをふりかえらないと
- 19章 包囲のなかでの決意
- 20章 追手を追う
- 21章 おわり、そして新しいはじまり