『自由からの逃走』の書評とサクッと要約|近代人は自由を得て孤独になった

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自由からの逃走(エーリッヒ・フロム著)

2週連続で激ムズでした。『自由からの逃走』はエーリッヒ・フロムの本。

近代人は、「自由を得る代わりに孤独になった」というのはとても興味深い考え方。『愛するということ』では孤独から脱却するための解決策として「愛」と導いていました。連作ですね。2冊を読むとわかりやすくなると思うのですが、いずれも読みにくいので逆に一層難しい内容になるかも。

この本、出版されたのが1941年。アメリカが戦争に参加する少し前なのだそうです。その時にフロムはアメリカに亡命していたようですが、本人はドイツ出身のユダヤ人。自由になったことで不安になった大衆心理に付け込んだファシズムに対して痛烈な批判をしています。

終盤に次のようなことが書いてありましたが、これだけでも現代においても、いくらでも考えられるような含蓄に富むメッセージな気がします。(名言の宝庫ですね。ほかにも引用させてもらったのでご参考ください)

人間がこんにち苦しんでいるのは、貧困よりも、むしろかれが大きな機械の歯車、自動人形になってしまったという事実、かれの生活が空虚になりその意味を失ってしまったという事実である

『自由からの逃走』p302

人間が孤独という感覚を大衆が持ったの近代に入ってからなのかもしれません。遠い昔、その日活きるのに命がけだった時代は、孤独とか考えないわけだし、領主がいたような時代は少なからず役割があった。自由になって帰属するものがないと孤独や不安に陥るわけで、マズローのいうところの自己承認欲求とかに転じていくのかも。

自由は無限すぎるので、やはり人間、帰属する何かが欲しい。人でもいいしルールでもいい。自主性が求められる現代において、何もない地図の上を「自由に」と言われても、何をしていいか分からないわけです。

実はある程度の制約があったほうが創造性を育むということがあるようです。ルールがあるなか、いかにうまくやっていくかということです。「なんでもやっていい」というのは、人間にとってかなり難易度が高いもののようです。

『自由からの逃走』で語られるのは、自由になった代償として自分で生きる自主性が重んじられるようになったということ。これまで封建社会では、各階層やギルドのなかで役割を与えられ、その役目を全うすれば、生活できていました。

ところが資本主義になっていくと、そうはいかないわけです。
資本主義が拡大していくと全体的には豊かになっていますが、貧富の溝は深くなりました。ピラミッドの頂上に近い者ほど青天井です。一方で社会福祉なしでは生きられない人もいるのです。

フロムも語っていますが、中産階級ほどこの不安が募り、この自由から逃げたくなるそうです。現代の資本主義の肥大化において、私たちのような一般人が抱く、何とも言えない不安がそれなんですね。

ベーシックインカムという話題がここ数年出てきますが、それがあったうえでの自由ならまた少し違うのかもしれないなとか、いろいろ考えました。

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本の概要と要約

『自由からの逃走』の問題提起
『自由からの逃走』の問題提起

著者の課題
近代人は自由を得る代わりに、孤独になり不安で無力な存在となった。今日、服従が多くの人を引き付けているのはなぜだろうか。

解決方法
社会過程のなかの自由を分析し、逃避のメカニズムを探り、孤独の恐怖を克服する。

『自由からの逃走』の要約
自由を得る代わりに孤独になった
『自由からの逃走』の要約
自由からの逃走のメカニズムとは?

内容

・自由とは何か?
 -自由は個人を孤独に陥れた
 -この孤独は耐えがたいものである
 -近代人は「~からの自由」は得たが「~への自由」は持ち合わせていない
・「~からの自由」
 -消極的な自由
 -これまでの固定的な関係から自由になった
・「~への自由」
 -積極的な自由
 -可能性を字湧現するための自由は持っていない

・中世、封建社会
 -社会秩序のなかで自由はなかった
 -しかし固定した役割があり孤独や孤立はしていなかった
 -かつ役割のなかでは自由にできた
・ルネサンス、宗教改革
 -経済力の嵐が吹く
 -個人の努力が求められ、中流階級は不安を抱え孤独に
 -人々の不安は神への服従という形で現れる

・資本主義は積極的な自由を増加させると同時に個人をますます孤独にさせている

・「~からの自由」の重荷に対する2つの選択
 ①積極的な自由の推進
 -稀な状態
 -しかし、芸術家であったり子どもという例はある
 ②後退し、自由を捨てる(逃避)
 -権威主義:服従と支配、対象との共棲
 -破壊性:対象の除外
 -機械的画一性:自己を捨て自動人形となる(大部分の人の解決策)

・結果、ファシストのような指導者へ隷属する
・あるいは民主主義国家の強制的画一化に向かう

・人々の目的に奉仕するような合理的経済組織の確立が必要
・人民の人民による人民のための政府という原理を発展させるべき

著者:エーリッヒ・フロムとは

エーリッヒ・フロム(Erich Fromm)はドイツ出身の心理学者。学生の頃にフロイトと文通をするようになり、初期のころはフロイト派であったが、次第にマルクスやウエーバーの社会学的な視点を加えた新フロイト派の代表とされる。

ファシズムを生み出した大衆心理を研究。1941年に『自由からの逃走』でまとめた。そのなかで現代人は自由を獲得したが、自由のもたらす孤独感に耐え切れず、逆に力強く自分を導く権威への服従を求めるようになったと分析した。個人が100%自由だったら、誰一人として同じ考えを持たない。つまり意見が一致しない。認めてもらえなので孤独になる。自由とは責任が重く孤独なので現代人は逃走するという考え。『愛するということ』でも孤独が鍵となっている。

一部britannicaを参照

本の解説と感想(レビュー)

自由とは何か

自由を求めるかわりに、自由からのがれる道をさがした

『自由からの逃走』p12

フロムが研究対象とする主は、自由を得たはずの民衆がファシズムに熱狂した心理です。そしてそれに付け込んだファシズムへの批判です。

そのファシズムに対し、フロムは「ファシズム国家では人々に自由をすてさせた」と表現します。現代の我々からすれば、ムッソリーニや広義のファシズムに入るナチスの政治というのは、権力の集中、民衆の弾圧だと非難の目で見ることができますが、当時の人々を魅了したからこそあのような形になり得たのでしょう。つまり、人々は進んで自由を捨てたという見方ができるのです。

はたして、自由と何なのか。フロムは問いを投げかけます。

「自由とはたんに外的な圧迫のないことであろうか」
「(人々に)服従を求める本能的な欲求がありはしないか?」
「自由が耐え難い重荷となり逃れたいものとなるようなことがあり得るのか」

親と子どもからアプローチする自由

フロムは「個性」というものについても言及しています。私たちが個性を発揮するのは、一体いつからなのでしょうか。いま個性を発揮しているのでしょうか。

子どもは、母親の胎内にいるときは、へその緒で母親と繋がり一体化しています。しかし、生まれると母親との物理的な関係から離れて一つの個体となります。

そうした意味で、子どもは肉体から分離したという身として「個人」となるものの、依然として母親の世話を受けざるを得ません。しかも人間の子どもは他の動物に比べてて長く両親に依存します。

成長する過程において、徐々に親とは異なる「個」としての存在を認識していき、やがて親とも離れた外の世界に触れることによってさまざまな経験(特に自分にとっての失望や、禁止されることの経験)を通し、自分とは相容れない存在がいることを知ります。そして母親にもそうした感覚を持つことになります。

思春期のことを考えると、子どもの成長過程にはそういったものが存在するんですね。

こうした自我の成長と裏腹に、それまでは自分を否定する世界から独立し、孤独が増大していきます。親から子どもが個性化(物理的、外界との接触)する過程は強制的に起こることですが、自我の成長がそれに追いつかないがゆえに、孤独感と無力感が生まれ、逃避のメカニズムが生じるのです。

「~からの自由」と「~への自由」

フロムは「自由」を2つに分けて考えています。それが、「~からの自由」と「~への自由」です。この二つは全くの別物です。

エデンの園の話が例として出されます。エデンの園といえば、神が最初の人間アダムとイヴに住まわせた楽園です。エデンの園ではアダムとイヴは、神のルールのもとに過ごしていたものの、ある日、蛇にそそのかされ神から禁じられていた知恵の実を食べます。これに怒った紙が二人を東方へ追放するというんがエデンの園の話。

追放されたとは言え、知恵の実を食べたのは自発的な行為であり、社会を逸脱した個としての活動でした。そして追放されたことによってアダムとイブは「楽園から自由」になりました。しかし楽園を離れて個性を実現することへの自由は持っていなかったため、人間の苦痛が始まるのです。

これまでの絆から自由であるということと、自由や個性を積極的に実現する可能性を持っていないということとのズレの結果、近代のヨーロッパでは自由から新しい絆への執着としてファシズムが人々を魅了したのかもしれません。

社会過程のなかの「自由」の変化

だれも自分でつき進み、自分で運命を試さなければならない。かれは泳がなければ、溺れるほかはない。他人は共同の仕事をいっしょにやる仲間ではなく、競争の相手となった。そしてしばしば、食うか食われるかの岐路にたたされた

『自由からの逃走』p70

中世社会からルネサンス、あるいは資本主義へ進む社会過程のなかで、フロムは自由と孤独の姿が浮き彫りにしています。

近代と比べ、中世を特徴づけるものとして個人的自由の欠如が挙げられます。どういうことかというと、中世ヨーロッパでは、生まれた時から自分の役割がほぼ決定しており、その役割を務めることが普通とされていたのです。

ヒエラルキーのなかの下方の人たちは、地理的な移動もできません。生まれた時から社会的秩序の中での地位が固定され、社会全体の構造に組み込まれ、所属するギルドのなかで活動していました。そこに、現代に生きる私たちが考える「自由」は存在しませんが、与えられた役割の中にいれば安定した生活ができ、帰属感もありました。与えられた社会的地位のなかであれば、いくらでも創造的な仕事もできたし、感情的にも自由な生活ができたそうです。

ところが、ルネサンス文化が現れると、個人の安心感や帰属感は危機にさらされます

ルネサンスは経済力がモノをいう上流階級の文化でした。経済力はすなわち資本力とも言い換えることができるでしょう。つまりこれまで安定していた経済的組織から、資本主義のような世界への移行する兆候が見えたのです。それまでギルドから独立して親方になるという道があったものが、一部の親方が資本を蓄えることによって雇用される側が増え、資本家に富が集中していくことになります。市場と競争が発生したのです。

だれも自分でつき進み、自分で運命を試さなければならない。かれは泳がなければ、溺れるほかはない。他人は共同の仕事をいっしょにやる仲間ではなく、競争の相手となった。そしてしばしば、食うか食われるかの岐路にたたされた

『自由からの逃走』p70

封建社会は経済的争いを防ぐ掟がありましたが、資本主義の世界では固定した場所はなくなり、個人が一人ぼっちになってしまったのです。特に中産階級と貧困階級は不安に襲われます。

当時の社会的な背景として、金さえあれば罪を犯しても赦免されてしまう状態がありました。これは贖宥状(免罪符といったほうがわかりやすい)という教会が発行する罪の償いを軽減する証明書です。これは教会の金策です。

宗教改革のきっかけとなったルターの主張は「神の前に万人は平等」であり、教会の権威に反抗し、金によって新たに生まれた富裕層への怒りを代弁していました。それが資本主義の勃興によって脅威にさらされ無力感と、個人の無力感に打ちひしがれた中産階級の感情とマッチし、宗教革命へと昇華していったのです。

そして、宗教改革のきっかけを作ったルターの神に対する関係は、完全な服従でした。

ルネサンスと主教改革は、封建社会というすべての社会的地位にいる人たちが、経済的に安定していた状態から解き放ちました。すべての社会的地位の人たちにが、一人一人取り残され、孤独に陥り、自由になったのです。

自由からの逃走手段

個性化が進むにつれて、服従と自発的行動とが二つの可能な結果として生ずる

『自由からの逃走』p40

統一された世界から、個性として独立すると、積極的自由へと進むことができる、愛情と仕事において自発的に彼自身を世界と結びつける独立と個人的自我の統一と捨てることなしに再び人間と自然と彼自身と一つになる
もう一つの道は彼を後退させ自由を捨てさせるこの逃避方法は強制的な性格を帯びている

1.権威主義

人は、子どもが親との絆から離れるような、第1次的な絆からの脱却を果たすと、第2次的な絆を求めるようです。これはフロムによれば、「服従と支配」への努力という形ではっきりと表れるのだとか。

服従と支配と言ってしまうと、ちょっと違和感はあるかもしれませんが、私たちの真理のなかにも少なからず存在しています。サディズム的傾向とマゾヒズム的傾向を考えてみましょう。サディズムやマゾヒズムというと、私たちは「S」「M」などと揶揄します。実はそんなに分かりやすいものではなく、心理的なものとしてはかなり奥深い。

フロムによれば、サディズムもマゾヒズムも他人とのとながり、共棲を目的にしているそうです。

サディズムは、対象を絶対的に支配しようとすることで、対象を自己に依存させる道具とするものです。マゾヒズムは個人的自己から逃げること、自分自身を失い、自由の重荷から逃れることを目的とします。

例として考えるなら、DV(ドメスティック・バイオレンス)でしょうか。DV夫は酷いことを言ったり暴力を振るったりします。これに耐えかねて妻は出て行きます。そうすると夫は孤独に耐え兼ね、許してくれと、もう二度としない、と懇願する。妻は妻で自由になったと同時に孤独になり、私がいなければと個人的自己から逃れまた戻ってしまう。

ファシズムはというと、強烈な指導者が自分たちが生きているこの状況を変えてくれるかもしれないという幻想を抱き、熱狂へと変わる。ファシズムが独裁へと変貌していくのは、その関係性が尖ってしまうが故なのかもしれません。

2.破壊性

権威主義が、対象との共棲を目指すものだったのとは全くことなり、対象との関係を除去しようとするものです。外界からの脅威を全て除去して自己を強めようとする、とのことですが、具体的な内容はあまり触れられておらず、咀嚼しにくい内容でした…

3.機械的画一性

周囲の何百万というほかの自動人形と同一となった人間は、もはや孤独や不安を感じる必要はない

『自由からの逃走』p204

この逃走は、現代社会においてほとんどの人々のとっている解決方法だそうです。なんとなく分かります。日本的な感覚で言うと空気のような存在になる(『空気の研究』参照)ということに近そうです。

この節で書かれる機械的画一性というのは、「個人が自分自身であることをやめる」「文化的な鋳型によって与えられるパーソナリティを完全に受け入れる」「自動人形となる」というものです。

つまり他人と同じように行動すれば、孤独に陥るリスクが軽減されるというもの。もっと言えば、社会の中のひとつの歯車であり、また量産型であるということを受け入れるということ。なんだかすっきりはしませんが、フロムが言う「自動人形は孤独や不安を感じない」にもハッとさせられるものがあります。

真に人々の目的に奉仕する組織が必要

デモクラシーは個人の完全な発展に資する経済的政治的諸条件を創りだす組織である。ファッシズムはどのような名のもとにしろ、個人を外的な目的に従属させ、純粋な個性の発展を弱める組織である

『自由からの逃走』p300

フロムは、とどのつまり民主主義がいいと考えているのですが、それを維持するためにはどうしたらいいのかということを説こう試みています。キーとなっていたのが「自発性」です。

近代において自発性は稀有な現象だと言っていて、辛うじて個人を自発的に表現できる「芸術家」と、本当に自分のものを感じ考える力を持つ「子ども」を挙げています。ときに芸術家は権威に負けることなく作品にメッセージを込め、子どもは大人たちが想像すらできなかったことを簡単に成し遂げます。

個性が躍動しているわけですが、これがひとたび服従や支配に侵されると、自由からまた逃走することになります。

フロムは、ファシズムのような権威主義的な組織に、デモクラシーが取って代わられることがないよう、人々の目的に奉仕するような合理的経済組織の確立が必要であり、人民の人民による人民のための政府という原理を発展させるべきだと締めくくります。

本の目次

『自由からの逃走』の表紙
『自由からの逃走』の表紙
  • 序文
  • 第1章自由ー心理学的問題か
  • 第2章個人の解放と自由の多義性
  • 第3章宗教改革時代の自由
    • 1中世的背景とルネッサンス
    • 2宗教改革の時代
  • 第4章近代人における自由の二面性
  • 第5章逃避のメカニズム
    • 1権威主義
    • 2破壊性
    • 3機械的画一性
  • 第6章ナチズムの心理
  • 第7章自由とデモクラシー
    • 1個性の幻影
    • 2自由と自発性
  • 付録 性格と社会過程

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