夜と霧(フランクル)の書評とサクッと要約|苦しみの先に何かが待っている

夜と霧の要約 名著
夜と霧(ヴィクトール・フランクル著)

気が付けば「年取ったなあ」と思うことがあります。身体的なところはさておき、メディアで見かける有名人になんと年下の多いことか…特にスポーツの代表選手とかは憧れだった当時の選手たちをすでに通り越してしまい、厨二心に描いた自分にはすごい力があるという妄想を気が付かないうちに打ち砕かれていたのです。

悲しい出来事からハッとすることもあります。

2020年7月、衝撃的な出来事だったのは、とても好意的に思っていた日本を代表する若手俳優の方が亡くなったということ。三浦春馬さんは30歳だったというから、「亡くなったなんて嘘でしょ?」というのが純粋な言葉だった。しかも一部報道では自ら命を絶ったということが伝えられていましたから、余計にその思いは強かったのです。

こうした出来事が起こったときに思い出すのが、フランクルの『夜と霧』。原題は”ある強制収容所におけるある心理学者の体験”というもの。戦時中、ナチスにより強制収容所(アウシュビッツではない)に収容されたフランクルが心理学者としての視点でその時の出来事をつづった本です。

どんな過酷で醜悪な状況に陥ったとしても、「未来に僕を待っている何かがあるかもしれない」という納得度が高いメッセージで勇気をもらえます。しかし一方で、それでももし命を絶つという選択がよぎる人に、いったい僕は何をしてあげることができるのだろうという無力さも禁じえません。

人生観や死生観に関していうと、同じくフランクル著書である『それでも人生にイエスと言う』では、本書でも語られる強制収容所の生活を生き抜いた人たち(もちろん自身も含む)の、その生死を分けた思考と行動であったり、自殺が無意味であることを訥々と説くような形で、生きる意味について考察がなされています。

同じような主張では、イエール大学のシェリー・ケーガン先生の『死とは何か』でも「未来への可能性を断ち切ること」ということが述べられていたりしています。併せて読むのがいいのではないかなと思います。

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本の内容と要約

夜と霧_要約
夜と霧の問題提起

何を?
強制収容所の体験を心理学者であるフランクルが記述した心理学的論考を。

誰に?
生きる意味を求めて悩み苦しむ人に。

なぜ?
絶望のなかにも生きる希望があり、しかし生きる意味を見いだすのが困難なのはどんな時代でも普遍であるから。

夜と霧_要約
夜と霧の要約

内容は?
原題は「強制委収容所におけるある心理学者の体験」

収容所での心の反応には三段階ある。
①収容 ②収容所生活 ③解放

①収容
ショック→御社妄想→冷淡な好奇心
②収容所生活
感情の消滅、感情の鈍麻、無関心内面への逃避
③解放
腑に落ちない→やがて感情がほとばしる→失意③解放
腑に落ちない→やがて感情がほとばしる→失意

生きる意味とは?
苦しむことは何かを成し遂げる過程。
生きていればあなたを待っている何かがある。

本の解説と感想

感情の鈍麻

「強いものが生き残るのではなく、適応できるものが生き残る」と進化論のダーウィンが述べたとされる言葉が思い浮かびます。

強制収容所で、これまでの人間的生活から家畜のような生活に移行していった人たちは、やがて自分の心を守るために心に装甲を纏うようになります。中庭で仲間の遺体があるのを知っていながら、眺めながらスープを飲む。苦痛や死が日常になった世界では、それらは当たり前になり、無感動になるというのです。

強制収容所の異常な日常は究極ですが、こういった状態に陥ることは僕らにとっても珍しくないのかもしれません。ご近所さんと過ごす日常、学校の日常、会社の日常、どれも「私」にとって当たり前で、それが普通ではないと言い切れないのではないでしょうか。ブラック企業と言われるような過酷な労働環境に勤める人たちの多くは、もしかしたらこの感情の鈍麻に陥っていたりするのかもしれません。

内面が豊かな人間が長生きした

無感動が自分を傷つけない手段だったとしても、身体も精神も確実に弱っていきます。『夜と霧』のなかでは、長く生きる人は何かの希望を持っていたり、内面化している人のほうが多いというような書き方をしています。

彼らの希望の中には、「クリスマスに家に帰れるという噂」が悲しい結末を迎えることもありましたが、妄想の中で妻と語る、収容所を出たら会いたい愛する家族のこと、いまこの絶望の果てに光が待っていると確信した人たちは長く生き延びたというのです。

なんとなく、O・ヘンリの短編『最後の一葉』を思い出します。

果てにあった喪失の無情さ

強制収容所を生き延びたフランクルを含む人々は、いざ解放されてもそれが現実感がないまま喜びを発散させるようなことはなかったそうです。食事など本来の「日常」をとることによって回復し、やがて爆発する。なかには暴力という形で表に出てきてしまう方もいたとか。

リアルに想像ができてしまうところが、フランクルが観察者として文章を記述している証拠なのかもしれません。今まで「日常」になっていたことがなくなり、自由になる。人間は自由になると実は何をやっていいかが分からなくなることがあります。

実は、僕が『夜と霧』で最もつらい記述は解放後でした。悪夢のような日々を息抜き、ようやく想像していた未来、妻やこどもに会えるという未来が待ち受けていると思っていた人のなかには、それがなかったという人もいたこと。

自由になった彼らが、待っていると思っていた愛する人がいなかったという現実を前にした人が、果たしてその後どのように生きたのか。それでもなおこの苦しみが未来に待っている何かの過程だと、そのときの彼らは果たして想像できるのでしょうか。

目の前には、ただただ何をしていいか分からない「自由」がある。

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