『それでも人生にイエスと言う』はヴィクトール・E・フランクルの著書。
フランクルの本は以前に『夜と霧』も読んでいました。どちらの本も難しい言葉ばかりが並ぶような内容ではなく、ごく普通の人にもかなり読みやすくなっているな、という印象を持っています。読者側がフランクルの綴る言葉をどのように解釈するのか、任されているようにも感じます。
本書でも述べられている通り、「私は人生に何を期待するか」ではなく「人生は私に何を期待しているか」というコペルニクス的転回(発想の根本を変える意味)による問いを探るように、フランクルの言葉を正解ではなく自分で意味づけしていくような、そんな作業でしょうか。
『夜と霧』にあるように、フランクルは、ナチスの強制収容所での生活において収容所にいる人間たちを観察し、その心理の変化を考察していました。『それでも人生にイエスと言う』は、その経験を踏まえ、戦後に生きていく人々に対してのメッセージように受け取れます。
ところで、本のタイトルは、フランクルとは別の収容所に収容されていたレーナ=ベーダという作曲家が書いた『ブッヘンヴァルトの歌』の一節から取ったもののようです。
収容された人々は、過酷な生活(もっとも、生活するにつれ衝撃的な事象への反応も鈍くなる「感情の鈍麻」に陥っているが)のなかで「それでも人生とイエスと言う」と歌い、実際に与えられた苦悩や、いまこの人生に意味づけを行って、いろいろ実行をして生き抜いてたのだそうです。
フランクルは、強制収容所のような究極に過酷な環境のなかですら人生に意味づけができるのだから、今日マシな状況で生きている私たちにが「人生にイエスと言えないわけはない」と伝えようとしています。
格言リスト待ったなしな言葉がたくさんありますので、どこかでまとめたいところですね~
本の概要と要約
内容
・著者:ヴィクトール・E・フランクル
ー『夜と霧』で極限状態の人間の真理変化を考察
ー『それでも人生にイエスと言う』は収容所解放の翌年の講演
・生きる意味と価値を思索する
ー「生きる意味があるか?」という問いははじめから間違っている
ー生きることはいつでも課せられた仕事
ー生きることは義務であり重大な責務
ー私は人生にまだ何を期待しているか、ではない
ー人生は私に何を期待しているか、と問う
ー生きる意味が、あるかないかは、その人次第
・人間は楽しみのために生きていない
ー自殺問題
ー自殺には意味がない
ー自殺は人生のマイナス決算としての結論
ーこれから先に幸せがない…
ーこの考え方は根本から間違っている
ー死刑宣告された男の例
ー最後に好きなものを食べていいと言われた
ー明日死ぬならうまい飯もいらない、無意味だ
ーもしこれが本当なら、すべての人は死に直面しているので人の一生は無意味になってしまう
ー幸せは目標ではなく、結果である
ー強制収容所の心理学
①ショック(収容時)
②無関心(収容生活)
③感情の学び直し(開放)
ー長生きした人は将来を支えにした人
ーそれでも人生にイエスと言うと歌い、いろいろな仕方で実行
ー希望を無くした人は弱った
ー×月×日に戦争が終わる夢を見た人は、その日を迎えると亡くなった
・それでも人生にイエスと言う
ー苦悩は比べられないが、今日マシな状態にある私たちが行動できないわけがない
著者:ヴィクトール・E・フランクルとは
ヴィクトール・E・フランクル(Viktor Emil Frankl)は、1905年、ウィーンに生まれる。ウィーン大学卒業。在学中よりアドラー、フロイトに師事し、精神医学を学ぶ。第二次世界大戦中、ナチスにより強制収容所に送られた体験を、戦後まもなく『夜と霧』に記す。
1955年からウィーン大学教授。人間が存在することの意味への意志を重視し、心理療法に活かすという、実存分析やロゴテラピーと称される独自の理論を展開する。1997年9月歿。
本の解説と感想
生きる意味と価値
生きる意味はあるか?
私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っている
『それでも人生にイエスと言う』p27
「生きる意味があるのかな…」というようにぼやくこともあるかとは思いますが、この状態は人生に何かを期待しているという状態です。主体性がなくなっているとも言えます。『7つの習慣』でも主体性は第1の習慣でスタート地点。
生きることはいつでも課せられた仕事で。例えば宗教信仰において人間は、人生は神が課した使命だと知って生きています。ヘッベルによれば「人生それ自体が何かであるのではなく、人生は何かをする機会である」という。
つまり、生きる意味があるかないかはその人次第。
「私は人生にまだなにを期待できるか」という問いだと、あらゆる困難を超えていけないけど、「人生は私に何を期待しているか」と問いであれば、直面する一つ一つに意味けをすることができる、という考え方。
若干、精神論な気はしますが、悲しみとか怒り、苦しみを乗り越えるための考え方としては納得できる部分はあります。ただ、現代ではまた何か種類の違い苦しみがある気がするので、そこまで腹落ちがないんですよね。
自殺には意味がない
フランクルは、人が自殺するという決断に至る理由には大きく4つあるとしていて、そのなかの1つ「生きる意味が全く信じられないという理由で自殺する人」について、特に無意味だと主張しています。
フランクルは、この理由で死を選択する判断としては、「人生のマイナス決算を引き出したため」とし、これに対して「この決算は根本から間違っている」と述べています。
この結論にフランクルが至っている過程で、貸借対照表の話があるのですが、これはちょっと理解が難しいところです。
本書には、「貸方(左側)にはすべての悲しみと怒りが置かれている。借方(右側)にはこれまで恵まれなかったすべての幸せが置かれている」というようにあります。
さらに「人生が自分から借りたままになっているものと、自分が人生で未だ到達できると思っているものを突き合わせる。そこでマイナスの決算が引き出されると自殺する気になる」とあります。
会社で言えば、貸方はお金の調達(借金とか資本とか)、借方はお金の使い道(買ったものとか)。これをフランクルの話に置き換えると、人生というお金の出し手から、貸方に「まだ出会ってない幸せ」を借りる。でもこうするとなぜ貸方に「消費または発動された怒りと悲しみ」があるのかが分からない。
この話を成り立たせるのであれば、借方には「人間が人生で経験し得るすべての体験」があり貸方には「消費または発動された体験」があると思う。
そう前提であれば、残りの人生で怒りや悲しみといった経験を上回って、幸せな経験ができないのであれば、マイナス決算という判断はするのかなと思う。
ともあれ、フランクルは貸方借方で考えてマイナス決算を出すという考え方自体が間違っているとし、そもそも幸せって目標ではなく結果なんだと述べています。
人間は楽しみのために生きていない
しあわせは目標ではなく、結果に過ぎない
『それでも人生にイエスと言う』p25
例えの話です。ある男が死刑の判決を受け、「最後の食事の献立を好きなように考えて良い」と言われました。男は数時間後に死ぬ運命なのであれば、美味しいものを食べようとどうでもいいことだと言います。
なぜなら、その幸せも2時間経てばすべてがなくなるから無意味だと考えたのです。
しかし、もしこれが正しいとするのであれば、すべての人の一生も無意味だということになってしまいます。なぜならすべての人は遅かれ早かれ死に直面しているから。将来の楽しみがないからと言って生きる意味は無くなりはしないというのです。
このあたりも、分かるような分からないような感じなのですが、シェリー・ケーガンの『死とは何か』のほうがシンプルで納得度は高い気がしています。シェリー先生曰く自殺を推奨しないのは「自殺はこれから回復する可能性を全て完全に断つ行為だから」とのことです。
病を超える
愛されている人間は、役に立たなくても、かけがえない
『それでも人生にイエスと言う』p100
ここ私は何ともいえないところがあります。不治の病であったり、何か身体が不自由になったりしたことが、幸い現状ではないから、その人たちの心が分からないですからね。
ただ、どんなに何もできない人がいたとしても、誰からの愛の対象となる人なのであれば、かけがえないというのはその通り。自分の人生に意味がない、価値がないと考える人は、立ち止まって誰かにとって、または何かにとって意味あるものかもしれないと少し考えてみたら、意味づけができるのかもしれません。
赤ちゃんは何もできませんが、親に愛されます。生きる価値がギブ&テイクではないのは明白です。(エーリッヒ・フロムの『愛するということ』を読んでみてください)
『それでも人生にイエスと言う』まとめ
最後の最後まで大切だったのは、その人がどんな人間であるか「だけ」だったのです
『それでも人生にイエスと言う』p12
フランクルが本書で伝えたいのは、「生きる意味はあるのか?」とという問いに対して「どんなときでもイエス」ということ。その理由は、人生は絶えず意味を実現する何らかの可能性を提供しているので、人生は終わるまで分からないということなんじゃないでしょうか。
そして収容所の経験と、そこで生き抜いた人たちを見た結果、生きることを実のあるものにできるかどうかはその人たち一人ひとりにかかっているということ。
そして、強制収容所のような過酷な環境ですらそうだったので、今を生きる私たちに「イエス」と言えないわけがないと。
まあ、そういわれてしまったら、ぐうの音も出ないですが…笑
本の目次
- 生きる意味と価値
- 病を超えて
- 人生にイエスと言う