『コンテナ物語』かなりボリュームがあったため、速読気味で読み進めましたが、とても面白かったです!以前から、Youtubeで元・2ちゃんねる管理人のひろゆき(西村博之)さんが、面白い本としてご自身の配信内で『コンテナ物語』を挙げていたので気になっていました。
コンテナって言葉だけでどんなものかすぐに「あのゴツい四角い箱」と想像できるくらいありふれて、港には大量に存在し、たまにレンタルスペースになってたりする、あのコンテナです。
コンテナの発明は革命的なのだけど、テクノロジーという感じでもなく、地味であったがために、これまで注目されなかっただとか。
このありふれたゴツい箱の影響はとんでもないものであり、文字通り「世界を変えた」発明の一つに数えられるものでした。コンテナの登場によって、モノが早く大量に安く世界中に行き渡り、製造業ではグローバリゼーションが起きることになりました。
この物語の主人公は、コンテナの発明者であるマルコム・マクリーン。現在から彼の行動を振り返ってみると起業家、イノベーターと言えるのですが、マクリーンからすればただモノを低コストで運ぶにはどうすればいいかを考えただけでした。ただただ輸送コストを安くしたいという目線から、コンテナ輸送を実現させたのです。
マクリーンは、「これだ」と狙いすましたら、そこへ全投資して、業界の既得権益などお構いなしに破壊しにいく反逆者。
陸運業から海運業にシフトすると「本気で取り組むには退路を断たなければいけない」として、同族経営だった陸運会社を一族全員で辞職し、財務と法務を駆使した離れ業をもって海運業者を買収するのです。買収手法はLBOというアメリカでも当時例をみなかった買収先の企業の価値を担保に借金するというもの。
当時の海運業にはさまざまな既得権益があり、あぐらをかいているような業者も多かったそうです。コンテナ化という考えはもっと昔からあったようですが、実現のハードルは高く、海運の門外漢だったマクリーンだからできたことだったのでしょう。
そういえば『多様性の科学』では、多様性にも合理性があることが重要と書いていました。運送業の低コスト化は、例えば海運業界でコンテナ船を作ろうとしても彼らだけでは画一的な集団にしかならず、門外漢であったのだけど同じモノを運ぶ陸運業者としての目線で海運業を捉え、実現にあたっては関連あるステークホルダーや必要な知識をちゃんと混ぜ合わせ、応用できた離れ業だったのかも。
コンテナという魅力あるエピソード、マクリーンという人物を新たに知ることができてよかったです!
本の概要と要約
著者の課題
ロマンが泣く地味すぎて経済や貿易に多大な影響を与えたのにコンテナを描いた本がない
解決方法
輸送だけではなく全世界の労働者や消費者に影響をもたらした箱の物語にスポットライトを当てる
内容
・世界を変えたのは箱の発明だった
・コンテナは高すぎる輸送費の低下を実現
ーコンテナ以前は船での輸送はコスト倒れになることもあった
ー荷物の積み下ろしをする荷役には時間も労働力もかかっていた
ーコンテナによりばら積みが不要になり港湾労働者は大幅に不要になった
ーこれにより急激にコストが下がった
・製造業が地方に移転
ー輸送費が高いので都市に近い場所に工場を置いていた
ーコンテナによりもはや都市部に置く必要がなくなった
ーこれによって国際競争は激化
・コンテナはトラック、鉄道、船、倉庫、港をシームレスにつなぐシステムである
・トラック野郎、マルコム・マクリーン
ーコンテナリゼーションをもたらした男
ートラック事業ではやり手の若手社長
ー海運業では門外漢の男
ー年々ひどくなるハイウェイ渋滞に対しトレーラーごと船に乗せればいいのではと考えた
・沿岸海運の権利獲得
ー陸運会社は権利を得ることができなかった
ー新会社(マクリーン・インダストリーズ)を設立し権利を持つ海運会社(パンアトランティック海運、のちにシーランドに改称)を買収
ー事実上、陸運会社と海運会社の両方を経営することになった
ー1956年、初めてコンテナを載せたアイデアルX号を出港させた
・セルとクレーン
ーコンテナを5段6段積みできる区画を設けた(セル)
ーどこの港でもコンテナを荷役できるように船側にクレーンを備え付けた
・ベトナム戦争
ー地球の裏側への物資輸送は混乱した
ーマクリーンとコンテナが問題を解消させた
ーコンテナの有用さが証明された
ー帰りが空の船だともったいないので日本のモノの輸出にコンテナを使った
・シーランド、タバコ会社のレイノルズに身売り
ー高速船の建造を計画したため
ーしかしオイルショックの影響で燃費の悪い高速船はコスト高になった
ーレイノルズはシーランドを手放し、マクリーンはレイノルズを去った
・マクリーンの復帰
ー運送業から離れるも復帰
ー今度は大型船を作ったが原油が低くなったため高速船が好まれた
ーマクリーンインダストリーズは負債を抱え破産
ーそれでも海運業界からは敬われ、集まりに顔を出した
著者:マルク・レビンソンとは
マルク・レビンソン(Marc Levinson)は、ニューヨーク在住のエコノミスト。The Economistの金融・経済学担当のエディター、Newsweekのライター、外交問題評議会シニア・フェローなどを務めた。著書に『例外時代』(みすず書房)など。著書「The Box(コンテナ物語)」では、一見単純なイノベーションがグローバリゼーションを可能にした方法を説明して、多くの賞を受賞した。
●公式
Marc Levinson(マルクレビンソン公式サイト)
コンテナ物語のあらすじ
1956年4月、58個の「箱」を搭載した船・アイデアルX号がニューアークからヒューストンまで運行されました。この始まりから10年、15年というゆっくりとした時間(あるいは短期と言えるのか)をかけ、箱、すなわちコンテナは世界の貿易にかつてないイノベーションを巻き起こす巨大な産業に発展しました。
『コンテナ物語』は、陸運を生業としていたマルコム・マクリーンを中心に、陸上から船まで荷物を箱を載せて運ぶというアイデアの実現に向けた10年間の闘争、そしてコンテナ化によってもたらされた輸送コストの急激な低下による経済的影響をつづっています。
本の解説と感想
コンテナがもたらした世界
物流の低価格化
コンテナがまずもたらしたのは、運送業界の低コスト化でした。コンテナ物語で語られるのは海運がメインですが、運賃争いになるため、必然的に陸運業界にも低コスト化をもたらします。これは劇的なコスト圧縮パワーがありました。
コンテナが登場する前、船で物を運ぼうとするには、積むのにも下ろすのにも時間と人件費がかかっていました。荷役作業は大量の港湾労働者が担っていて、港の近くには彼らが生活する場所があったくらいだそうです。
コンテナが登場したことによって、荷物を一つひとつ運び確認する必要があった荷役作業は劇的に早くなり、労働者も多くが必要がなくなりました。
グローバリゼーション
運送コストが安くなると、製造業にとって輸送費が原価に占める割合が劇的に減るというメリットをもたらしました。これにより、運送コストを安くするためにモノを買う消費者が多い都市部の近くに工場を置いていた製造業者が、こぞって郊外に工場を移転させることになりました。
これまでは、例えば地球の裏側までモノを届けようとした場合、輸送費だけで原価割れなんていう事態にもなりかねませんでした。しかしコンテナがこの問題を解決し、遠いところからでもモノを輸出し運べる世界を作ったのです。
そのデメリットともいえる現象もくっきりとしてきます。工場がどこでもいいということは、世界中で生産される製品が競合になるということです。特に1960年代以降、ベトナム戦争で現地に輸送するコンテナ船が、空にして帰るよりコンテナに積んだほうがいいというマクリーンの思惑と合致して、日本はエレクトロニクスを北米への輸出を本格化させ、貿易大国として経済成長を遂げていきます。
港湾労働者の失業
荷役作業が大幅に楽になったおかげで、港湾労働者が大量に失業することになります。マクリーンがコンテナを使って海運業を営み始めたころ、港によっては労働者が仕事ができなくなるために、ボイコットにあい荷物を下ろせないなどの事態も発生しました。
産業革命で機織り機を破壊した運動ラッダイト運動にも通じる気がしますね。。
規格戦争
コンテナの有用性が認められてきましたが、さらに活用させるための課題が規格化でした。コンテナ輸送は多くの業者が参入してきていましたが、それぞれが別々のサイズのコンテナを生産してしまうと、積荷作業が非効率になってしまいます。というよりも規格化されたほうが、さらに生産性が高まるでしょ、という話。
コンテナを製造するのにも費用が掛かるため、参入をためらう業者もいました。
規格化は当然ながら難航を極めました。業界全体で統一化を図りたいものの、どこかの業者のサイズに合わせると非難がくるのは明白。これまで先行投資で大量のコンテナを保有していたマクリーンの会社・シーランドも自社の規格に合わせたいという思惑もあり…
1966年にようやくサイズと金具の規格が決まり、リース会社がコンテナを注文し始めました。
コンテナ物語(マルコム・マクリーンの人生)
トラック会社の社長
混雑した沿岸道路を走るくらいなら、トレーラーごと船に載せて運べばいいじゃないか
『コンテナ物語』p73
世界を変えたのは「箱」であり、その箱で世界を変えたのは、マルコム・マクリーンという海運業とは何の縁もなかった一人の男でした。
マクリーンは若いころからやり手の経営者で、22歳にはトラック業の社長を営み、従業員も抱えていました。マクリーン運送です。数年でこの会社を大きくして若くして大金持ちになったのですが、年々ひどくなるハイウェイの渋滞を前にして、「トラックごと船に載せたらいいのではないか」と考えました。
第二次世界大戦の終結から経済は大きく発展し、交通の渋滞ばかりではなく、船に荷物を搬入する時間もかなりリソースを使っていて、荷役を追えるまでに何時間、何日も要するということもあったのです。荷役は一つ一つの荷物をトラックから船に積み、船から下ろすときも一つ一つ人の手で、人の目で確認をするという、労働集約型の作業だったのです。そうなると荷物の紛失もあり、輸送時間もかかり、輸送費だけでコストが上がってしまう状況でした。
マクリーンの発想の根幹は「低コスト化」。どこからどこに輸送するものなのか、一つの箱に格納してしまい、トラックごと船に乗ってしまえば荷役作業もまるでいらなくなり、低コストで大量の荷物を輸送することができるじゃないかと考えたのです。
海運業者の買収
「全資産を海運業に注ぎ込まず一部は安全に運用したいと考えなかったのか?」という質問されたマクリーンは、きっぱりと「全然考えなかった」と答えている。「本気で取り組むには退路を断たなければいけない」
『コンテナ物語』p76-77
このアイデアを実現させるためには、ハードルがありました。排他的で既得権益のある海運業の営業許可を、陸運業の業者が獲得することができなかったのです。
マクリーンは、海運業を営むための権利を獲得するために、1955年に新会社マクリーン・インダストリーズを設立し、そのうえで海運業者パンアトランティック海運を買収するという選択を実行します。これにより、実質的に陸運業(マクリーン運送)と海運業(パンアトランティック海運)の経営をさらにその親会社であるウォーターマン海運を買収。これによりもともと港に寄港できる権利などを持つ海運業者を子会社にすることになりました。
マクリーンは、財務に関しての計算ができる経営者で、ウォーターマン海運を買収するのにいくら必要でどのような方法でやるか、計画的に実行していってました。
マクリーンの資産だけではウォーターマン海運を買収できないため、 買収対象企業の資産価値を担保にして銀行から融資を受けることで、この買収を成立させます。ちなみに、これはアメリカではじめてのLBO(レバレッジバイアウト)だったそうです。
コンテナ
マルコム・マクリーンが優れて先見的だったのは、海運業とは船を運行する産業ではなく、貨物を運ぶ産業だと見抜いたことである
『コンテナ物語』p87
マクリーンの「とれトレーラーをそのまま船に」というアイデアはさらにブラッシュアップされ、車輪があると無駄なスペースが生まれるので「トレーラーのボディだけを船に」というものに変わり、ここにコンテナ輸送の核が定まってきました。
この発想なら、在来線でビールを運ぼうとする場合、1トンあたり4ドルのコストがかかっていたのに対し、25セント、つまり94%も安く済むという計算になりました。
箱の製造は、ブラウンインダストリーズのタントリンガー(のちにコンテナの規格を検討する一人となった)に発注、コンテナを積載しても安全に運航できることを証明し許可を受けることができました。コンテナの積上の問題は、埠頭にクレーンを備え付ければよかろうとなり、初めての運行航路であるヒューストンとニューアークの2港に備え付けられました。
これによって準備は整い、1956年4月、アイデアル号にコンテナが詰め込まれ、初めてコンテナを積んだ船が運航したのです。
セルとクレーン
コストを低く、という意識を徹底しているマクリーンは、コンテナを船倉に並べるだけではもったいないと考え、コンテナを段積みしてもっと大量の荷物を運べるようにしようと考えます。
運送業ではよく言われるものですが、例えばトラックの中身が10%しか入っていないのと100%入っているのでは、トラック一台あたりのコストは変わりません(もちろん重さによって燃料の使用量は変わりますが)。これを密度の経済といい、船でも実現させようとしたのがセルという仕組みです。
セルは、コンテナを並べる際の区画のことです。整理して並べたほうが効率よく積載できることは明白ですし、段積みしようとしたときに機械的に処理できやすい状態にもなります。
段積みできるようコンテナには隅金具を備え付けるなど様々な工夫が施され、実用化していきます。
さらに、クレーン問題にも踏み込みます。これまでニューアークとヒューストンなど埠頭にクレーンをつけていましたが、これではクレーンが備え付けられている港にしかコンテナを運ぶことができません。そこで船側にクレーンを付ける試みがなされます。
すでにマクリーンインダストリーの一員になっていたタントリンガーが機械業者を探し、船に備え付けられるクレーンの開発を推進していきました。
ベトナム戦争
コンテナリゼーションはシステムである。コンテナの全面活用を念頭において設計されたロジスティクス・システムで使われてはじめて、コンテナの効果は最大化される。
『コンテナ物語』p246
コンテナの有用性、およびマクリーン率いるシーランド(元パンアトランティック海運)がアメリカ政府にも認められるようになったのがベトナム戦争でした。
ベトナム戦争では、1965年にベトナムへの緊急増資が開始されたのち、たちまち物資補給の混乱が起こりました。ベトナムでは荷役作業は人力。物資もいつ到着するか分からない。到着しても荷役に時間がかかって船の往来が全然できない。ひとつずつ貨物を取り出さなければならないこの状態を知ったマクリーンは、自分の出番を主張します。
シーランドは見事に荷物を捌きます。まずオークランドから沖縄までのコンテナ輸送で成果をだし、ついにアメリカからベトナムへ直接輸送の依頼も受けます。これまで在来線で20隻分の物資をたった7隻の船で物資を裁き、慢性的な物資不足解消に大いに貢献しました。
さらにマクリーンは、これだけでは終わりません。ベトナムに運んだだけでからの船を持って帰るだけではばかばかしいと、ついでに日本からモノを運ぶというビジネスを実現します。当時、世界最速のペースで経済成長を遂げていた日本の産業界がコンテナ輸送に目を付けないわけがなかったのです。
身売りとさらなる野望
他を引き離して世界最大のコンテナ海運業者となっていたマクリーン率いるシーランドですが、1969年にタバコ会社R.J.レイノルズに身売りします。
これは業績不振での身売りではなく、マクリーンのさらなる野望を実現させるための戦略でした。革新的なコンテナ船・SL7号の設計に着手していたのです。しかも8隻発注するという。この船は1隻3200万ドル、設備投資は4億3500万ドルに達するというシーランドにとっては大博打になる投資でした。しかしレイノルズにとってはささやかな額でしかありませんでした。
70年代に入るとコンテナ輸送も普及してきており、価格競争が懸念され始めました。マクリーンは高速船SL7によって、差別化を図ろうとしたのです。
ところが、世界にオイルショックという大きな経済的な影響が巻き起こります。原油価格が安かったそれ以前であれば、燃料効率が悪い高速船SL7の優位性はあったものの、燃料コストが4倍に跳ね上がってしまい、SL7は利益を生まない存在になってしまったのです。
レイノルズは海運ビジネスから足を洗い、シーランドは独立企業としてスピンオフされてしまいました。マクリーンも77年にはレイノルズの取締役を離れていきました。
海運業への復帰
コンテナ輸送を成功させる重要な要素、すなわち規模を実現できるはずだ
『コンテナ物語』p305
輸送業から離れていたマクリーンは、ユナイテッドステーツ海運を買収し、海運業に復帰します。今度は他者の1.5倍ほどもあるような超大型船を建造し、一度の就航で大量の荷物を運びやすく運ぶ、規模の経済を狙ったものです。
コンテナの生みの親であるマクリーンの新たなチャレンジに、資金は苦労せずに集まります。しかしまたしてもマクリーンの目論見が外れます。当時1バレル28ドルだった原油価格が50ドルまで上がると見込んで大型船を建造したものの、なんと14ドルにまで下落したのです。
こうなると今度は高速船の需要が高まり、ユナイテッドステーツ海運の船は、わずかな間に場違いなものになってしまったのです。マクリーンインダストリーズはこの影響で12億ドルの負債を抱え、破産申請。数千人が失業したそうです。
さすがのマクリーンも、大量の失業者をだしてしまったことに心を痛めたそうです。ですが、それでも海運業界へは引き続き尊敬されるべき者として敬われたのだとか。破産から5年後、77歳でまた小さな海運会社を設立しました。
2001年、マクリーンは87歳で人生に幕を下ろしました。
コンテナ物語のまとめ
マクリーンは陸運業という運輸という面では海運業に近しい産業で社長をしていましたが、近くにいたからこそ沿岸海運への脅威と機会を見出し、その破壊的なアイデアを実現するために、海運業界の「当たり前」に捉われずに突き進むことができたんでしょう。
とはいえ…この突き進み方はブレーキが壊れているというか、短期間であっという間に事をなしている姿はものすごい起業家だとしか言えませんね…。コンテナを始めて載せた船が出港したのが1956年。ベトナム戦争で飛躍したのが1966年。身売りしたのが1969年。ものすごい人生。
また『コンテナ物語』からは、ビジネス書であとから説明されるようなことの事例をだくさん堪能できます。例えば、『世界標準の経営理論』で語られるようなビジネスモデルのことであったり、『「バカ」なと「なるほど」』のような差別化と合理性の話とか。
そもそも、コンテナを推進したのも『WHYから始めよ!』のゴールデンサークル理論でいうWHYの部分で「とにかく輸送費を安く!」という信念からもたらされたものでもあります。
コンテナというものの見方が変わるのはもちろん、たくさんの学びが得られる一冊でした。
本の目次
- まえがき
- 改訂版への謝辞
- 第1章最初のESネクスト監査法人航海
- 経済と地理の新しい関係
- 港から姿を消した沖仲仕の群れ
- 劇的な輸送コストの低下
- 貿易パターンと経済活動の拠点の変化
- 第2章埠頭
- 危険できつい港の荷役作業
- 独特な波止場の文化
- 「箱」導入の試み
- 第3章トラック野郎
- 運送業界の風雲児
- アメリカ初のLBO
- マルコム・マクリーンの先見性
- 第4章システム
- セルとクレーン
- 地球物理学者フォスター・ウェルダン
- 物流の先端を行くニュー・ベンチャー
- プエルトリコ航路を独占
- 第5章ニューヨーク対ニュージャージー
- ニューヨーク港の没落
- コンテナ専用港ポートエリザベス
- 未来がないマンハッタン埠頭
- コンテナリレーションの影響
- 第6章労働組合
- 荷役ボイコット
- 「パレット貨物の掟」と「機械化・近代化協定」
- 大幅に上昇した労働生産性
- こじれた東海岸の労使交渉
- 第7章規格
- ゲージとコンテナの相違点
- 紛糾した議論
- ISO 規格
- 隅金具とツイストロックの規格
- 現実味を帯びてきた国際コンテナ輸送
- 第8章飛躍
- 護送船団方式とカルテル
- 突破口となったピギーバック方式
- 大陸間のコンテナ輸送サービス
- マクリーンの決断
- 新しいビジネスに向かう気概
- 第9章ベトナム
- 兵站が課題
- 海軍大将への直訴
- 合言葉は「三つのC」
- おまけの利益
- 急拡大した日本〜西海岸航路
- 第10章港湾
- 港の生き残り競争
- 流れに取り残されたポートランドとサンフランシスコ
- 出遅れた港はフィーダー港に
- ハブ港としてのフェリックストウ、ロッテルダム
- 予想を超えたシンガポールの躍進
- 第11章浮沈
- シーランド、巨大たばこ会社に身売り
- 貿易立国日本の性交
- 供給過剰
- 石油ショックの打撃
- 第12章巨大化
- ユナイテッドステイツ開運を買収
- 「問題はサイズだ」
- サッチャー首相、21の港を売却
- 世界一周構想と大型倒産
- 第13章荷主
- コンテナ革命のゆるやかな影響
- コンテナ化による運賃への影響
- 高どまりした国際輸送コスト
- 弱体化した海運同盟
- 荷主の価格交渉力
- 第14章ジャストインタイム
- バービー人形のサプライチェーン
- 地理的条件が重大問題に
- 巨大船、巨大港のデメリットも
- 人間を排除した自動化の進展
- 第15章付加価値
- アントワープの試み
- ジェベル・アリとドバイ経済
- 「箱」と世界経済