『「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義』はイェール大学で23年連続で開講している屈指の人気講義をまとめたものだそうです。
僕が読んだのは、日本向けにまとめられた縮約版ですが、2019年に完全翻訳版が出たそうですね。
ということはですよ!
完全ではなくてもだいたい内容はまとまってると考えていいんじゃないでしょうか。縮約版でも実は日本での刊行に当たって割愛したところでの大事な部分をシェリー先生が語っているので(^^;
内容はというと、めちゃくちゃ難しい。何を言っているか分からない。
わからないのですが、僕自身、実は読むのは3回目。だいぶ自分にとって有益なエッセンスは絞り出してますが、人様に語れるレベルには達していないですかね…
シェリー先生の課題意識とメッセージはいつもの通り、紙にまとめてみました。学者先生ですので、結論に至るまでに合理的に述べられているのですが、それは割愛します…
サマライズ(本の概要と要約)
著者の課題意識
誰もが「やがて死ぬ」とわかっている以上、「どのような生き方をすべきか」という疑問について慎重に考えるべきだ。
解決方法
もし死が一巻の終わりなら、自分が何者であり、わずかな時間をどう使っているかを意識することが大切だ。
内容
●死を恐れることはない
人格機能(記憶、意志など)が停止したら死ぬのか、身体機能(心臓、肺など)が停止したら死ぬのか。もし人格機能がない状態が死だとしたら、人格があるとは言い切れない赤ん坊は死んでいることになる。脳死の状態は死なのか。
死ぬとはただ、身体が作用し壊れるだけ。
●不死が良いわけではない
永遠に生きたいと思う「今」と同じ経験を続けられるか?ずっと同じ趣味と価値観で過ごすことができるのだろう。1000年生きたとして、そのとき身体も記憶も変わっているとしたら、今の私と同一人物と言えるか?
●死は剥奪説
死とは、生きていたら経験できることが奪われること。人が死を恐れるのも、生きていたら経験できる良いことを享受できなくなるということから。したがって、良い人生とは死んだ後の価値がマイナスになるときで、悪い人生とは死んだ後の価値の方がプラスになるときだ。
●自殺について
「生きててよかった」があるなら「死んでよかった」もあっていい。しかし自ら死ぬということは、回復の可能性をすべて断つことである。したがって、否定はしないが推奨はしない
●死を免れない私たちはどう生きるべきか
人生は何かをやるには短い。追求するべき価値のあることに取り組むのがいいだろう。まずは達成可能性のあることをすること。死ぬ死なない以前に、人生を台無しにしないことが大事だ。
『死とは何か』とは
『死とは何か』の内容は、繰り返しになりますが、副題にもある通りイェール大学でシェリー・ケーガン氏が20年以上講義をしている内容をまとめたものです。
ちなみに私がこの本を購入したころは縮約版として発売されていました。その省かれてしまった該当部分は文響社さんのほうでPDFで公開していたりします。
●文響社さま
『死とは何か』原書縮約部分
現在は完全版が発売されていますので、購入するのであれば完全版のほうがよさそうです。
著者シェリー・ケーガン
イエール大学哲学教授。道徳・哲学・倫理の専門家。「死」をテーマにしたイエール大学での授業は、17年連続で「最高の講義」に選ばれているそうです。ちなみにGoogleで画像検索するとだいたい教室においてある教壇(テーブル?)に乗っかて胡坐をかいて説明している様子がヒットします。
本の解説と感想
死の本質とは?
まるで哲学のような問いがずっと続くのですが、屁理屈のような気にもなってきます…
「死んでいる」という状態と「生きている」という状態は、いったいどのようなものなんでしょうか。人間は誰もが死ぬと分かっているのに、「死」というものの本質について考えたことがある人はたぶん少ないですよね。死についてのシェリー先生の結論は、多くの人が「そりゃそうだ」と考えていることです。「身体が壊れる」ただそれだけです。
シェリー先生はまず、人間の機能を「P(パーソン:人格)機能」「B(ボディ:身体)機能」に分類しました。P機能とは人格や記憶や意識です。B機能とは身体を構成する心臓などを指しています。そしてシェリー先生は問いを投げていきます。人にとって「死」とは、意志決定ができなくなるP機能の喪失なのか?と。
P機能は人格や記憶の機能ですが、これがない状態というのはいくつか考えられます。まずは脳死状態で、これはB機能は機能しているのに、意識や記憶がありません。他者から見れば生きている状態でも、本人にとっては…?難しい問題ですね。それから赤ちゃんはどうでしょう。赤ちゃんはまだいいかもしれませんが、睡眠しているときや気を失っているときも意識はありません。
B機能は呼吸をしたり血液を流したり、肉体そのものなどです。これは一部機能しない場合もあることもありますが、生まれてからずっと機能しています。B機能がすべて停止した場合、P機能も喪失することになり、その物体は死体です。
ということで、どちらの停止がより死に決定的かと言うとB機能の停止が決定的です。「身体が作動し壊れる。死とはただそれだけ」と結論付けています。
そして後で論証しようとしていますが、意識だけあり別の身体を媒介にして生きていくことができたとしたらその状態はどうなのか?という問いも出てきます。
死は悪いことなのか?
僕らはなんとなく「死」というものから忌避しようとしています。個人的な話ですが、私が小さいころアニメ版のドラゴンボールで孫悟空が心臓病で苦しんでいる姿を見てものすごく死に恐怖した記憶があります。未来からトランクスが来て、未来を知っているトランクスは孫悟空の死を知っているわけです。未来のブルマから託された薬で助かるわけですが、幼心に恐怖をもったのは、「悟空がいれば世界が救える」という希望が喪失されてしまうからだったのかもしれません。
大人になっても死ぬことは怖いです。まだまだやりたいことたくさんありますしね。
さて、「死が悪いことか?」という問いにはいくつかの方法で答えることができます。
ひとつは、「不死は良いことか?」という観点からの検証です。古来より不老不死を求めた為政者は少なからず存在しました。秦の始皇帝もそう言われています。不死を求めるとうことは死ぬまでにできないことがあるということなのかもしれません。しかし何らかの方法によって1000年生きたとして、それは「私」なのでしょうか?シェリー先生はそう投げかけます。つまり、B機能が停止したとしてもP機能が存続している状態です。そのP機能はわずか50年の間にも趣味や価値観が変わるというのに、永遠に生きた私は、身体を何回も入れ替え、もはや1000年前の記憶や興奮など忘れ去り交友関係も違っているでしょう。それはもはや「今の私」と同じと言えるのだろうかとうのです。
うーん、なんか屁理屈なような。確かに永遠に生きたいと思った私の状態と違うのであれば、不死になった意味って何なんだろうとは思う。そう考えると、死と言うのは永遠の退屈を終わらせてくれるキッカケになるので悪いこととは言えなそうです。
そしてもう一つ、なぜ「死を恐れるのか?」という問いについての考えることです。死ぬということは生きていれば享受できるはずの良いことが享受できなくなる(はく奪説)ので、死は悪いことかもしれません。しかし生きていたら悪いことも起こるかもしれないので、その可能性も同時になくなることになるため、「死は良いこと」とも言えそうです。
この考え方で言うと、「死が悪い」と言えるのは死後の価値がプラスになるときで、「死が良い」と言えるのは、死んだ後の価値がマイナスになるときです。
ああ…だんだん何を言ってるのか分からなくなってきました。
自殺は可能性を断つ行為
自殺については非常にセンシティブな話ではあります。シェリー先生は自殺は推奨しないと言っています。これには愛情があるように思います。
さきほど、死んだ後の価値がマイナスになるとき「いい人生」であるという話をしました。シェリー先生は自殺に関する章の中で、「生きててよかった」があるならば「死んでよかった」もあっていいと言っています。これは先ほどの話と繋がっています。
しかし、シェリー先生が自殺を推奨しないのは、「自殺は回復する可能性を全て完全に断つ行為だから」だと言っています。
僕もそう思います。生きていれば経験できるいいことが待っているかもしれないので、自殺なんて選択してほしくはありません。『夜と霧』でもフランクルが「苦しいことは何かを成し遂げる過程」「生きていればあなたを待っている何かがある」と収容者に言い聞かせていました。それは大変共感するのですが、当人にしてみれば、あるいは私自身がその選択をするところまで来たとしたなら、未来の希望まで考えられるのでしょうか。ちょっとモヤモヤします。
どう生きるか?
死について考えるということは、「どう生きるか」という問いとセットで考えることになると、シェリー先生は言っています。
それはこれまでの内容から分かる通り、「死」の本質の答えを出すには生きているという状態は何かを定義しないといけなかったり、死が悪いことかを考えるには永遠に生きることが良いことかを証明しなければなりません(シェリー先生は自分が満足した段階まで生きることが望ましいとしている)。
人生は何もしないとしたら長く、何かをするには短いので、とにかく価値があることを力を注ぎ、やりたいことをやり切ることに全力を尽くさなければなりません。何に価値を見いだしどう実現するかを真剣に考えろと、シェリー先生は言っていると解釈しました。
『死とは何か』関連ネタ
今回のレビューでは、あくまでイエール大学のシェリー・ケーガン先生の講義のなかで問われる「死とは何か?」という内容をベースにしていますが、この問いはさまざまに議論されるし、これまでもキリスト教や仏教といった宗教、偉人達がその答えを模索してきています。名言的な言葉を残していたりもしますね。
哲学として
死について考えると、思索が終わりません。ぐるぐると回って、何が答えなのか分からなくなる…。
「生きること」と「死ぬこと」をセットで考えることなのかどうかもまた考えどころ。キルケゴールの実存主義は生きることのあり方を述べているし、心理学の領域になりますが、ヴィクトール・フランクルも強制収容所での生死を分けたものを突き止めようとアプローチしています(『夜と霧』『それでも人生にイエスと言う』)。
宗教として
宗教上の死生観は、それぞれの宗教でまた異なるものです。
バラモン教ルーツでは、例えば「魂」というものがあり、その魂は「輪廻」をたどり、人は何度も転生。その魂が肉体に入っていた時の行いによって、動物なども含めた生類に生まれ変わるといった考え方。また、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教などは、人は死ぬと審判を受けて永遠の魂を与えられたり地獄へ落とされたりと様々です。
関連本:ニュートン別冊 死とは何か 増補第2版
Newtonでも「死とは何か」についてが特集されています。結構人気なトピックらしく、2019年に別冊で刊行されたものが、2021年に改訂版として増刷されています。
シェリー先生は「死は身体が機能しなくなること、ただそれだけ」という結論ですが、Newtonでは、身体の老化現象から、死と判断される状態、死との向き合い方について書かれています。
『死とは何か』まとめ
死について考えることが、すなわち「どう生きるか」を考えること、というのがシェリー先生の訥々した説法のような内容でよくわかりました。本書はなかなかややこしい話ではありましたが、メッセージが何かを分かったうえで読んでいくと納得性のあるものかなと思いました。無為に生きるのではなく、達成可能性があり、やるだけの価値があることをしっかり考えてみることにします。
目次
※私が読んだバージョンは縮約版のため、完全版をお持ちの方とは構成が異なります。
- 第1講 「死」について考える
- 「生と死の本質」とは?
- キリスト教、仏教…あらゆる宗教に頼らず「死」を語れるか
- はじめて考える人にも、死と隣り合わせに生きる人にも役立つ入門書
- 第2講 死の本質
- 私が死んだのはいったいいつ?
- 「身体の死」VS.「認知機能の喪失や脳の死」…人が本当に死ぬのはどっち?
- 「存在しないのに生きている人間」という矛盾
- 「人間」であるのは、私たちの人生の「ほんの一期間」!?
- 「心臓移植」と「殺人」の確かで不確かな境界線
- 臓器移植は道徳的に正当化できるか
- 「睡眠」と「死」は厳密に区別できない!?
- 生死の境はじつは曖昧
- 昏睡状態の生死を見分ける ケース①ただスイッチが切れているだけ
- 昏睡状態の生死を見分ける ケース②致命的に破壊されて二度と戻らない
- 冷凍睡眠でさらに生命の輪郭は曖昧に
- 死とは何か――シェリー先生の見解
- 第3講 当事者意識と孤独感――死を巡る2つの主張
- 主張①「誰もがみな、”自分が死ぬ”ことを本気で信じてはいない」
- 根拠①「死んでいる自分」を想像できないから
- 根拠①に対するシェリー先生の考え
- 「自分が死んでいるところ」は本当に想像できないか
- フロイトの考える「死」に対するシェリー先生の反論
- 根拠②「自分の身体がいつか死ぬ」とは本当は信じていないから
- 「自分はいずれ死ぬ」という理解と「今から死ぬ」という実感は別物?
- 根拠②に対するシェリー先生の考え
- 主張②「死ぬときは、けっきょく独り」
- 「独りで死ぬ」ならば、それは必然か、偶然か
- 「けっきょく独り」なのは、死ぬときだけか
- 死は絶対に「協同作業」になりえない?
- 身代わりとしての死
- それは本当に、「死ならでは」のこと?
- 死を取り巻く「孤独感」
- 主張①「誰もがみな、”自分が死ぬ”ことを本気で信じてはいない」
- 第4講 死はなぜ悪いのか
- 死はどうして、どんなふうに悪いのか
- 死は何より、「残された人にとって、悪い」もの?
- 「死ぬプロセス」や「悲しい思い」こそが「悪い」?
- 「自分」という存在がなくなることが「悪い」こと?
- 非存在は「機会を奪うから悪い」(剥奪説の考え方)
- 死はいつの時点で、私にとって悪いのか
- エピクロスの「死は取るに足りないものだ」が意味するもの
- 「時点を定められない事実」は存在するか
- 死が「悪いこと」になるタイミング
- 非存在と悪は同居できるか
- 「非存在=悪」を受け入れることで生じる不都合
- 「生まれそこなった気の毒なラリー」は全世界に何人いるのか
- 「人類史上類を観ない、最も多くの命が奪われる惨事」は戦争ではない!?
- 死と存在の問題がもたらす哲学的泥沼から抜け出すための別解釈
- 「死」はどんなもときでも、タイミングが悪過ぎる
- 死後に関するルクレーティウスの主張とその反論
- 「生まれる前」と「死んだ後」の時間は、同じ価値を持つか
- 「私」は過去には存在しえない
- 「もっと前に生まれていれば」にこめられた意味
- 「未来志向」が時間の重みを変える
- 「死が悪い」ということについての、シェリー先生の結論
- 死はどうして、どんなふうに悪いのか
- 第5講 不死――可能だとしたら、あなたは「不死」を手に入れたいか?
- 不死こそが人間にとって最善なのか
- 「お先真っ暗」なら死は大歓迎に値する!?
- 長く生きるほど、人生はよくなるか
- 「不死」と「生き地獄」は紙一重!?
- 「永遠の生が手に入ったら、何をするか」の思考実験
- 永遠の命=永遠の退屈?
- ただ快楽を得続けるような状況に置かれた場合
- 永遠の退屈を凌ぐために私たちができること
- 人間が抱える不死と退屈、人格のジレンマ
- 最善の「生」とは?
- 第6講 死が教える「人生の価値」の測り方
- 人生の良し悪しは、何によって決まるのか
- 本質的に良いもの、悪いものとは?
- プラスとマイナスの計算から人生の価値を測る
- 快楽主義に対するシェリー先生の見解
- 快楽は、私たちの人生に価値を与える唯一絶対のものになりうるか
- 望みどおりの再考の体験ができる装置の中の人生は、完璧か
- 「完璧な人生に欠けているもの」の正体
- あなたの人生は、プラスとマイナスどちらに振れる?
- 「人生そのもの」にどれほどの価値があるのか
- ただ生きているだけで生じる価値とは?
- そしてまた、「なぜ死は悪いのか」を問い直す
- 「みないずれ死ぬ」は恩恵――ただし、問題は死が訪れる時期にある
- 第7講 私たちが死ぬまでに考えておくべき、「死」にまつわる6つの問題
- 1 「死は絶対に避けられない」という事実を巡る考察
- 死の不可避性――だから良い?それとも悪い?
- 2 なぜ「寿命」は、平等に与えられないのか
- 寿命のばらつきがもたらすのは幸せか、不幸か
- 3 「自分に残された時間」を誰も知りえない問題
- 「いつ死ぬか」がわからないから悪い?わからないから良い?
- 4 人生の「形」が幸福度に与える影響
- 「良いこと」と「悪いこと」――総量が同じでも幸不幸に分かれる理由
- 人生の頂点を極めるべきタイミング
- 「あなたの余命はあと一年です」――そのとき、あなたは何をする?
- 5 突発的に起こりうる死との向き合い方
- 「これで死ぬなら本望だ!」と言えることは何か
- 死ぬ可能性こそが、快さの根源!?
- 6 生と死の組み合わせによる相互作用
- 足し引きだけで人生は評価しきれない
- プラスの相互作用 有限だから生をより大事にできる
- マイナスの相互作用① 味見は味見にすぎない
- マイナスの相互作用② 高貴な身分からの没落
- 「生まれてこなかったほうがまし」と「自殺」はまったく交わらない
- 第8講 死に直面しながら生きる
- 死に対する3つの立場
- 生と死について考えずに生きるのは、けしからん?
- 絶対に無視できない「隠された重要な真実」とは?
- 事実については、「いつでも考えるべき」か
- 死を思うべきとき、思うべからざるとき
- 死と、それに対する「恐れ」の考察
- 「感情が理にかなう」とは?
- どんなとき、人は恐れを抱くべき?
- 条件①恐れているものが、何か「悪い」ものである
- 条件②身に降りかかってくる可能性がそれなりにある
- 条件③不確定要素がある
- 「恐れ」の感情と「死」の接点
- 死に伴う痛みが恐ろしい
- 死そのものが恐ろしい
- 予想外に早く死ぬかもしれないのが恐ろしい
- 「若くして死ぬ」ことを恐れるのは、それ自体が不適切!?
- 抱くべきは「恐れ」とは違う感情だった?
- 「早死にする運命に怒る」という立場
- 「早死にする運命を悲しむ」という立場
- いずれ死ぬ私たち――人生で何をするべきか
- 死ぬか死なないか以前に、人生を台無しにしないこと
- 人生の「やり直しが利かない過ち」とは?
- 人生は、何もしないには長過ぎるが、何かするには短すぎる
- そんな人生で、あなたは何をするべきか
- 第9講 自殺
- 理性的に自殺を語る
- 自殺にまつわる「合理性」と道徳性
- 自殺の合理性に対する第一の疑問――どんな状況ならば、自殺は合理的な決断になりうるか
- 「死んだほうがまし」なのはどんなとき?
- なぜ哲学は「死なないほうが良い」ことを論証できないのか
- 「生きてて良かった」がある以上、「死んだほうが良かった」は否定できない
- 「絶対的に悪い死」よりもさらに悪い生とは?
- 「生きている、ただそれだけで素晴らしい」となると、評価は変わる
- 人生の価値に対するシェリー先生の考え
- 「死んだほうがまし」になるのはいつのこと?
- 自殺が合理的になるタイミングを見極める
- 安楽死と自殺の問題
- たった数パーセントだとしても「回復する可能性」にかけるべきか
- ちょっと回復したけどまだ悪い――その人生の価値は?
- 自殺が合理的になる瞬間は、たしかにある!しかし…
- こうして「間違った自殺」は起こりうる
- 未来の人生充実度は知りえない
- 決断を下すときの基本原則――自殺以外の事柄について
- 苦痛の長さが自殺を合理化する?
- 自殺の合理性に対する第一の回答――自殺の選択が合理的な場合もあるが、推奨はしない
- 自殺の合理性に対する第二の疑問――自殺の決断は明晰で冷静になされうるのか
- 死にたいほどの痛みやストレスは、正常な判断力を奪う?
- それでも合理的判断はできる――決めなければいけない手術の場合
- 自殺の合理性に対する第二の回答――瀬戸際でも理にかなった評判は下せる
- 自殺の合理性に関するシェリー先生の結論
- 自殺の道徳性に対する疑問
- 自殺に対する安直な道徳的主張①自殺は神の意思に背く
- 自殺すら、神の意思どおりという可能性
- 聖書の中に応えはない
- 自殺に対する安直な道徳的主張②素晴らしい命に感謝せよ
- 命は誰かからの贈り物?それとも押しつけられたゴミ?
- 神は「死んだほうがましな人生でもガマンして生きろ」と言うか?
- 私たちの行動は、「結果」を通して道徳的か否かが判断されている
- 自殺からいちばん大きな影響を受けるのは自分自身
- 自殺の、自分以外の人への影響
- 周囲の人をほっとさせる自殺もある!?
- 結果主義と自殺と道徳性
- ①功利主義的立場
- 結果が最悪でも自殺しないほうが良い場合
- ②義務論的立場
- 一人を殺せば五人が助かる――考えるほどに深みにはまる道徳的命題
- 自殺は、「私と言う罪のない人間」を殺す反道徳的行為である?
- 自分の扱いは「道徳の範囲」に含まれるのか
- 自殺は自分の、自分による、自分のための死?
- 「自分自身の賛同」という重み